この時代になると、神仏習合(しんぶつしゅうごう)はますます進み、初めのうちは神が主で仏が従であったのが、そのうちに僧侶が支配的となり、立場は逆になっていきました。今度は仏を守るために、寺院の境内に鎮守(鎮守)の神が祀られるようになりました。
平安初期に集成された『延喜式(えんぎしき)』の神名帳(じんみょうちょう)(官社帳(かんしゃちょう))には、官社として認定されていた神社が二八六一社(三一三二座)記されています。ここに記された神社を「式内社(しきないしゃ)」(これ以外を式外社(しきげしゃ))といいます。国家的祭祀(さいし)の際、神祇官(じんぎかん)より幣帛(へいはく)が奉られる神社が官社すなわち式内社ですが、中央の神祇官が遠方の官社まで出向くのが何かと大変であるという理由のため、『延喜式』制定の折りに神祇官が直接奉幣する「官幣社(かんぺいしゃ)」と、国司が奉幣する「国幣社(こくへいしゃ)」に分けました。そしてさらに「大社」と「小社」に分けられています。
またこれらとは別に、十世紀初めより十一世紀初めまで、朝廷は特に尊崇する「二十二社」を選んで殊遇しました。伊勢神宮を始め、式外社の石清水(いわしみず)八幡宮なども含まれています。
また、この他に一種の社格(しゃかく)として、国内で最上位の地位を占めた神社に「一の宮」、次に「二の宮」、その次には「三の宮」という呼称がつけられました。これは、国司が任国の国内の神社へ奉幣する際の順番にもほぼ対応していたことから、これが呼称の由来ではないかとも考えられています。それから、巡拝をするかわりに、同府近くの一つの場所に諸神をまとめて合祀(ごうし)し、「総社(そうしゃ)」としました。
平安初期頃までの人々の神社信仰は、各々の土地の氏神(うじがみ)信仰が主流でしたが、中期頃からは、霊威ある神々が地域を越えて祀られる勧請(かんじょう)型信仰が盛んになりました。そして稲荷(いなり)・八幡(はちまん)・天神(てんじん)・伊勢(神明(しんめい))などの各社が方々に勧請をされるようになったのです。 これについては、平安京などの住民の多くが新住民で、地縁血縁関係が少なく、霊威神・流行神を受け入れやすかったことにもよると考えられます。